希望と不安だらけの出発 


 1988年秋、New Yorkに向け日本を発ちました。当時、極真会館から独立し『USA大山空手』(当時の名称)を立ち上げて間もない大山茂総主の内弟子として空手修行を始めるためで滞在先も先輩がJFK空港まで迎えに来てくれていることが分かっていても約14時間の機中は不安だらけでした。 英語もチンプンカンプン??で若さと勢いに任せ機上の人になったといえばカッコいいですが、実は周りの人たちに「New Yorkで修行を積む!」と言い放った手前引っ込みがつかなくなってしまい内心は「しまった!」という後悔で一杯でした。 時はバブル経済真っ只中で、そのまま日本に残っていれば楽しい生活が送れただろうと今でも思っています。
 旅立ちの日には、友人たちが成田空港まで大きな花束を持って見送りに来てくれ、出国手続きにエスカレーターで降りながら、その当時話題だったドラマのワンシーンを思い浮かべていたように思います。 その後、成田空港を何度利用してもその場所が見当たらず不思議に感じていましたが、のちのち家人から「ずいぶん前に第2ターミナルが完成したのを機に変わったよ!」と告げられ、友人たちからも「浦島太郎だね!」からかわれる始末。
(7,8年ぶりに帰国した際は、自分の生まれ育った国でありながら違和感があり、まるで異国の地にいるような気分でした)
 さて、友人からの花束、有り難いけど席はもちろんエコノミークラスで『邪魔になるしアメリカまで持ち込んでも生花は厄介そうだし・・・?』との思いで搭乗口へ向かいました。すると、そこでは数人のキャビンアテンダントが整列して搭乗者を出迎えており、彼女たちの前を通る際、なんの躊躇もせず一人のアテンダントに手渡しました。 米国人だったからか?そのリアクションが熱烈過ぎて僕は多分?顔を真っ赤にして照れながら『これがアメリカか?』と訳の分からない感情に浸ってたような???(笑) また、機内食が配られる際には、まさに組手前の心境で緊張感が漂い、今思えば「肉料理か魚料理か?」と聞いているだけなのですが、僕としては彼女たちが非常に大きく感じ自分のところに来るまで前方の人たちが、どのような返事をしているのか耳を澄ませて必死に聞き取り、心臓の鼓動が聞こえてくるような状態でその大きな試練の時を待っていました。(今でも思い出す度に微笑します)

 そんなこんなであっという間に時間も経ち窓からは自由の女神が目に飛び込んできました。(あの時の感激は今をもって思い出す度に胸が熱くなります) 泣いても笑っても引き返すことのないマンハッタン上空まで来たという覚悟の思いです。 後に何度となくマンハッタン上空を飛ぶ機会に恵まれましたが、同じような感情が湧きあがることはありませんでした。 慣れ始めると飛行機がGateに入るまで寝ており、窓の外の景色を気に掛ける事もなくなっていました。(笑)
 さぁー!ニューヨークに降り立ってアメリカ生活が始まりました。その日から帰国するまでの18年間、様々な体験を積ませてもらい気持ち的に一回りも二回りも余裕を持って日々過ごせるようになったと自負しています。 その体験をこれから綴っていきたいと思います。  
押忍!

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