『体罰』とは何ぞや! February 02, 2013

 最近、マスコミを賑わせている『体罰』について書こうと思います。 報道を見る限りでは、大した経験もしてきておらず机上の論理でしかモノを考えられない輩が、この時とばかりにペンの力を持って或いはカメラの力を使って『暴力』も『叱咤・激励』もすべてひとまとめに『体罰』として批判しているに過ぎないと思っています。スポーツの世界やクラブ活動に於いて体罰とはなんぞや??? 僕の考えでは、そこには『暴力』か『叱咤・激励』しか存在しません。 

  大阪市の高校バスケットボール部で行われたのは、もし報道通りに成人男性が無抵抗の未成年に3040発も平手打ちを喰らわせたのであれば、それは何の疑いもなく『暴力』です。あえて言わずとも『暴力』は決してあってはならないものです。しかし、本当に3040発も叩いたら、その指導者自身も手が痛かったろうに...? また、叩いた理由が試合に負けたからというのであれば、この人物は指導者としての能力は伝えられるほど優れたものではないだろうと感じます。己が指導してきた結果として負けたという事は自分の指導に誤りがあったと感じるのがまともな指導者であり、成熟した指導者であろうと信じて疑いません。

  私が指導を受けた側の体験で思い浮かぶ例をいくつかあげてみると、茶帯から黒帯になる昇段審査では上半身裸になって『三戦(サンチン)』『天掌(テンショウ』という型を行います。その間、竹刀で頭部以外の全身を隈なく師範に叩かれ、僕の場合は終わってみると全身のあちこちにミミズ腫れが出来上がっていました。或いは、NYC道場で内弟子の朝練の際、サンドバックを叩き続けている中で少しでも気を抜いた突きを出そうものなら後ろから大山茂総主の竹刀が力一杯飛んで来ました。もちろんアザになり何日も痛みましたが、決して恨んだり暴力だと感じた事はありませんでした。むしろ、たくさんいる内弟子の中で自分の動きに注意を払ってくれていた事に喜びさえ感じました。もう一つ言わせていただくと、経験のある指導者というのは叩くにしても叩かれる側が『叱咤・激励』に感じる叩き方を知っているというか?タイミングを知っているというか? 叩く際には、そこに信頼関係というものが既に出来上がっている状態です。

  余談になりますが極真会館総本部での内弟子の時、ある日の朝礼で大山倍達総裁より先輩からのシゴキやいじめに関してこんな訓話があったのを思い出します。『君たちね〜!私がどんなにシゴキはいけないよ!いじめちゃいけないよ!と言ってもね、弱い先輩たちやロクでもない先輩たちは私の見てない所でやるよ! 君ィ〜!それが嫌だったら大会に出てたくさんの人が見ている前でその先輩を一撃でのばしてしまうのよ!そしたらそいつはペコペコして二度と迷惑かけないよ!だから、君たち!強くならなくちゃダメだよ!わかった?』 そして、われわれ一年目の内弟子全員が『オス!』と出せる限りの声で返事をしました。

  最後に何を伝えたいかというと、未熟な経験しか持たない指導者もどき、勝負を目指すには、あまりにも弱いメンタリティしか備えていない指導される側、そして何の信念も持たず口を挟んで来る第三者たち、どいつもこいつもと感じるのは僕だけだろうか? いま一度、誰しもが己の行動に、言動に責任を持ってもらいたいものであります。 押忍!

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