私の死生観、ある住職との出逢いから  December 17, 2006

昨日、1216日は母の命日でした。私が9歳だった30年前に乳がんを患いこの世を去りました。 入退院を繰り返していた母と過ごせた時間はとても少なかったけど、その面影は私の記憶から離れる事はありません。また、当時私が小学生だった為か?周りの人たちから『かわいそうに!』と連発され、それほど感じていなかった『僕はかわいそうな人?』と思うように考えていた事を思い出します。 さてさて、このコラムを読まれる方も、これまでに人の死に直面し嘆き悲しんだ経験をお持ちだと思いますが、私が以前にも紹介させていただいた米国仏教団小杭総長に出会い、先生の経験に基づいた話を聴き、また自分自身の体験を通して感じた『死生感』について書きたいと思います。

和尚曰く、葬儀ではいつも棺の死体に向かって『いい人生だったかの?』と問いかけるそうです。もちろん返事は返って来ませんが...(笑) その後、参列した人たちに向かって己を今一度見つめ直し、故人の死を無駄にしない旨の法話を説くそうですが、そんな法話に『とても面白い』『とてもためになる』『いい話をしてくれる』等の感想を人伝えによく聞かされていました。 日本国内で坊さんといえばお経をあげただけで多額のお布施をもらい、葬儀で故人の話をするのは遺族や友人だけのようなイメージが私には強かったのですが...? 

以前、住職がエイズ患者たちを慰問した時の話をしてくれました。 そこにはキリスト教から始まって様々な宗教の代表者が集まっていたそうですが、その殆どの人が患者達に死後の話をしたそうです。しかし、小杭住職は『 I'm dying!』(私はもう死が近い)と訴える患者に対し『me too!(わたしもだよ!)と伝えたそうです。それまでの誰とも違う言葉にその患者は大きな驚きを隠せなかったそうです。念のため誤解しないように住職もエイズ患者だという意味ではありません。 ここで伝えたかったのは『人間だけでなく、この世に生があるものすべて、この世に生を受けたがために死というものがあり、恐れるにあらず』ということです。もっと分かりやすく書くと『この患者に会いに来たがために、帰りに交通事故に遭い命を落とすかもしれない、この患者よりも早く死ぬかも知れない、何もエイズ患者だから特別に死が近いというわけではない』という意味合いです。 米国に渡って40年近く開教使として奔走され、たくさんの人の死、人の誕生、人の結び付き(日本では、お寺は葬式だけに使うところと誤解している人が多いように思いますが、結婚式、初参り等のお祝い事にも利用されます)を体験されてきた住職の一語一語が非常に重く感じられました。 特に、この世に生を受けることの難しさを説き、自ら命を絶つ事の愚かさをことあるごとに話されていました。 最近、いじめによる自殺が世間をにぎわせていますが、昨日今日に始まった事ではなく私の知る限りでは何年か周期で必ず話題になるような気がします。アメリカの学校でもいじめはあるようで道場に通っていた生徒の親から「うちの子が空手を習い始めてから学校でいじめられることがなくなった」と感謝されたことも何回かありました。 私は空手を習って腕っぷしが強くなりいじめられなくなったのではなく、空手を習い始めこれまでになかった自信がつき、それが日頃、落ち着き堂々とした態度として現れ、いじめっ子たちが近づきにくくなった結果だと考えています。 昨今の日本国内は大人も子供も自分の可能性を信じる力が薄れ、それが歪となり、色々な問題の引き金になり表面化してきているのだと私は思います。 もちろん、空手だけが自信をつける手段ではありませんが、体験に裏打ちされた自信を持つ人は、やはり何事に於いても力強く感じます。Find it yourself, Reach it yourself, and Realize it yourself(可能性を感じ、より磨き上げ、強く実感する) 大津道場の標語です。
 住職自身、渡米当初は思うようにならない事が多く『どうでもいいや!』と投げやりになり死を考えた時期もあったと聞いた記憶があります。その時、花瓶に挿された一輪の花に『ハッと』気づかされたと云います。(どう悟ったかについては、またの機会に) 私自身は今までに『死にたい』と思ったことはありませんが、どうにでもなれと自暴自棄になったことは何度かあります。具体的には思い出せませんが、その度に何かをきっかけに立ち直り、そのおかげで今の自分があります。そういえば金銭的に乏しかった時期、葬式の手伝いをさせていただいたことが何回かありましたが、アメリカの葬式は日本の葬式に比べて雰囲気が明るく、赤・ピンク色のバラ・カーネーションが問題もなく飾られているし、参列者のネクタイの色までも赤系や柄物など、まちまちです。日本の葬式でこんな花を送ったり、華やかな色のネクタイで参列したりすればヒンシュクだろうなぁ?と毎回思っていました。

 最後に住職の説法を拝聴し、死に対し無用に恐れる事はない! 生とし生けるもの死ぬ時は死ぬ!死なない時は死にたくても死なない! だからこそ生かされている今、この時を大切にしなければいけない。 この気持ちをしっかり自分の中に宿していれば巷にあふれる、まやかしじみた宗教、占いに人生を惑わされる事はないと信じてやみません。

 今回は何か哲学者になったような気分の文章になりました。   押忍

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