時には思い出から   January 18, 2009

 先週末の連休は大津道場の新年会を40名程の集まりで催し、楽しく過ごしました。今夏には大津道場として初めて泊り掛けでの合宿も計画しており、段々と良い方向に盛り上がっています。もちろん私一人の力では不可能であり、色々と段取りを整えてくれる方々の協力があっての事と深く感謝しています。

  さて翌日は早朝から近くのサウナに駆け込み、昨日の酒を抜きさっぱりした気分になったところで明治神宮に初詣に出掛けました。思い付けば直ぐに行動です。ただ、所沢を出た時は素晴らしい晴天だったのに原宿に着く頃には今にも雪が降って来そうな空模様と冷え込みになっていました。 案の定、参道を歩き始めるとみぞれがぽつぽつと降り始め、凍えながらの参拝になりました。 なんとか本降りになる前には参拝を済ませ折角ここまで来たことだし、しかも僕一人なので20数年ぶりに思い出多き表参道、青山通りを渋谷駅までぶらりと散歩することにしました。 実は渡米前、その資金稼ぎのために南青山の結婚式場で配膳のアルバイトをやりました。 その頃の配ぜんの仕事は時給が高く楽だったように思います。今思うと僕が働いていた式場は抜群に恵まれた環境で週末以外は結婚式がほとんどなく平日は夕方からのバンケット(宴会)に備えて昼ごろ出勤してから準備時間までずーっと待機です。 待機中は何をしているかというと新聞や雑誌を読むか?倉庫裏でのお昼寝です。もちろん、この間も時給は出ます。 夕方前にちょこちょこっと準備をして、それが終わればまた待機して乾杯時にビールの栓を抜いたり料理の蓋をとったりとほんの少しだけ仕事します。 そんなこんなで30分ぐらい働けばまた待機です。宴会が終われば片付けながら手つがずの料理をつまみ、作業終了の時間調整をするような仕事ぶりでした。なんせ15分過ぎれば1時間分の時給が貰えたので、その時の状況でゆっくりやったり急いだりと思いのままでした。社員もその場にいて指示を出すのですが、殆ど注意は受けません。 ここまで書くと働く側にとってはすごく恵まれた環境でそんなので会社が成り立ってたのか?と思うかもしれませんが、1980年代後半のバブル期は日本が狂っていました。宴会でも気前よくどんどんと飲み物、料理が注文され、そのほとんどが手付かずで残っており、祝いの席では誰もが出費を惜まない風潮でした。 売手としては面白かったやろうなぁ〜? しかも、この施設は東京都教職員組合が関係する施設で余り黒字を計上してはまずいような事をちらっと聞いていました。 当然バイトでもこんなに恵まれてたんやから職員なんか万々歳の職場だったやろなぁ〜? 昨今よく耳にする『天下り官僚』なんかはもっとおいしい環境で過ごしているんだろうなぁ〜?と想像してしまいます。 おいしい事ばかり書きましたが、働き始めて3カ月間ぐらいは先に入ったバイト達にこき使われ「何買ってこい!」「あれ買ってこい!」と待機時間中はパシリ状態でした。 「くそ!床に這いつくばしてまおか!」と口から出そうになるのをぐっと抑えて資金稼ぎのために我慢でした。 こういう輩を黙らすのは彼らより仕事ができるようになる事だと、それまでの経験から悟り、人一倍張り切って仕事を覚えるようにしました。仕事が出来るようになると何も言われなくなった上に、それまでは仕事に自分がコントロールされているように感じていたのが、反対に自分が仕事をコントロールできるようになったと思えました。 

 この頃は、『すべてが自分を中心に回っているのでは?』と錯覚するほど思い上がり、夜はバイト仲間と南青山、六本木、渋谷辺りを闊歩して酒の力に任せ色々馬鹿な真似をしましたが警察沙汰にはなった覚えがないので当時の世の中は『ある程度の事は許す的な雰囲気だったなぁ〜?』と歩きながらふっと思いました。もう通り周辺は以前と比べ様変わりし、あの頃を思い出させる建物、店は殆ど見当たりませんでした。でも僕にとっては、思い出深い時間を過ごした場所です。 こうして思い出に浸れるのもあの恵まれ過ぎた環境にいながらも自分を見失うことなくチャレンジする道を選んだ結果だと今をもって思っています。 
   『我が行く道を選ぶ時、その恵まれた環境に戸惑う事なかれ!』

 あらためて自分に言い聞かせたい言葉です。  押忍

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