それを『クセ』というには?  April 08, 2012

 日本では4月という響きに年度初めということで何かと新しく始める、始まる感があります。私も昨日は高校生になった息子の入学式に列席してきました。この週末、首都圏は桜が満開の見ごろとなり高校に隣接する大本山護国寺の桜も『これ見よ!』とばかりに花開き、とてもきれいでした。風が吹き少々肌寒い日でしたが年に一回あるかないかの正装といういでたちで桜を満喫させてもらいました。

  さて、初めての事に取り掛かるとしばらくはもの珍しく興味を持って取り組めるのですが、日が経つにつれ同じ動作、同じ事の繰り返しは苦痛に感じ始めるのが我々の常だと思っています。 我思うに『大体1ヵ月前後に【迷い】が出始め、それが払拭できると、また3ヵ月前後に【迷い】が舞い戻ってきます。それを超えると6ヵ月目、1年目と何度も何度も【それは】舞い戻り、思い悩ませてくれますが、それでも同じ事に3年間取り組む事が出来れば【馴染む】というか?いろんな壁にぶつかれど続けれるようになります。その段階に到達してより深く取り組みたい願望が芽生えればワンランク上の目標を課し続け、それをやり遂げる。』 これが私の体験で得た『継続』に対する感覚です。

  空手の基本稽古に例えると、三戦立ちで行う手技・平行立ちからの蹴り技・前屈立ち・騎馬立ち・後屈立ちといった伝統的な立ち方での移動稽古も段々と意味のない稽古に感じ始めるかもしれません? ましてや伝統的な型は、その動きから組手の中では何の役にもたたないエクササイズ的なものに思えるのでは? 事実、私自身も大会に出て試合中心に『Karate』というものに取り組んでいた頃は、そういう考えしか持っていませんでした。 あえて私がラッキーだったと感じるのは教えを乞うた師に恵まれたという事でしょうか。 以前から三浦美幸師範には『基本が基本稽古だけに終わらず、移動稽古、型へと繋がり、その先にある組手の中で活かせなければ空手をやってる意味がないよ!』と口酸っぱく言われていました。 ただ、当時の私はそれを理解できるまでの心境には至っていませんでしたが・・・。

  わが師からの数ある教えを私自身の体験に照らし合わせ自分なりに記してみると基本稽古を繰り返す事により、その動きにとって最良の身体の使い方を覚え、移動稽古によって身体に沁み込ませた動きを移動しながらも出せる感覚を身に付け、いくつかの違った動きを組み合わせた型を知る事で角度、呼吸、四方八方に気を張り巡らせ、それらが組手でも活かされていくものだと信じています。そして、組手を体験した延長線上に精神的な強さや自信が加わり、他に対する思いやりも育まれて行くものだと考えています。これが『Karate』ではない『空手道』の示す『道』であると信じてやみません。 

  初めに伝えたかったのは『頭であ〜だこ〜だと考えるだけではモノにならず、身体に覚え込ませ、どんな状況でも無意識にその動きが出来るようになってこそ初めてそれを習得した』という意味合いなのだが・・・?  押忍

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